それからというもの、司は毎日のように桜の下へ通った。
そしていろんなことを話した。
司の通う大学のこと。
おいしい菓子のこと。
遠い異国の地のこと。
司が旅をした街のこと。
どんな話をしても、桜はいつも楽しそうにしてくれた。
それがうれしくて司はいろいろな話をした。
そうしている内に季節は移ろい、桜が散り始めた頃。
その日桜はどこか上の空だった。
司の話は聞いているようだったが、いつものように楽し気でかわいらしい笑みを浮かべてはくれなかった。
それが気になって、司は尋ねた。
「その、どうかしましたか? なんだか元気がないようですが?」
「いえ、その……」
桜は何かを迷うように言いよどみ、司の目を見ないまま告げた。
「司様」
「なんですか?」
「もうここへは来ないでください」
「え? どうして……」
「ここへ来ても、もう会えないでしょうから」
「なぜ」そう問いかけようとした司の目の前で驚くべきことが起こった。
桜の身体が半透明になり、後ろの景色が透けて見えたのだ。
「これは、どういう……」
「さようなら。司様。楽しい日々をありがとう」
消えていく桜を捕まえようと、司は腕を伸ばした。しかしその腕はただ虚空を掴んだだけだった……。
◆◆◆
桜が突然消えてしまった次の日。
司は再び桜の大木の下を訪れた。
しかしそこに桜の姿はなく、美しかった桜もすっかり散ってしまっていた。
司の胸がぎゅっと締め付けられた。
(もう桜には会えないのだろうか?)
司は痛む自身の胸を左手で強く掴んだ。
そして透き通るような青空を見上げた。
まるで何かを誓うように……。
◆◆◆
それからも毎日、司は桜の大木の下を訪れた。
しかし桜と会うことはできなかった。
それでも、それでも毎日通い続けた。
雨の降りしきる梅雨の日も。
太陽の照り付ける夏の日も。
木々を揺らす嵐の日も。
切なさを誘う秋の日も。
雪積もる冬の日も。
そして桜のつぼみが芽吹いた新春の日も。
毎日、毎日通い詰めた。
そんなある日、司の研究が認められる日が来た。
研究の内容は「愛の比較研究――日本と西洋の違い」だった。
司はそのことを報告するため、桜の大木の下を訪れた。
もちろんそこに、桜の姿はなかった。それでも司は報告したかった。
「桜さん。ようやく僕の研究が認められました。全部、あなたのおかげです。あなたに出逢えたから、僕は本当の愛を知ることができました」
司ははにかむように笑いながら、そう告げた。
しかしその表情は徐々に崩れていった。
「桜さん……。あなたに、遭いたい」
司の双眸から、涙が雫となって零れ、桜の大木の根元を濡らした。
そのとき、奇跡のようなことが起こった。
桜の大木に息づいていた蕾が静かに開いたかと思うと、小さな光の粒子が司の周りを包み込んだ。
『司様』
どこからか声が聞こえる。
『司様!』
今度はよりはっきり聞こえた。
思わぬ光に閉じていた瞼を開いた先には、司の会いたかった女性がいた。
天女のように美しく、儚い女性が。
「司様。お久しぶりです」
「桜!」
思わずそう叫んだ司は、桜に腕を伸ばした。その腕は虚空を掴むことはなく、彼女自身を胸に抱くことができた。
そこにはあたたかなぬくもりがあった。
桜は抵抗することもなく、司の背中に腕を回すとそっと瞳を閉じた。
「ありがとう。司様。あなたがわたくしをずっと覚えていてくれたから、こうしてまたお会いすることができました」
「桜、会いたかった」
「わたくしもです」
静かに見つめあった二人の影は、ゆっくりと一つに重なった。
最終話 季節はまた巡る
そして季節は巡った。
夏が来て、
秋が来て、
冬が来て、
司と桜が出逢ってから何度目かの春が来た。あれから学者として大成した司はいろいろな国を巡っていた。
イギリス。
フランス。
イタリア。
しかし春になると彼は必ず日本に帰って来た。
いろいろな国の話を〝彼女〟に聞かせるために。
その日も彼は春の陽だまりの中、縁側でとある国の話をしていた。
茶色い着物に黒の羽織を着た司の眼前には、あの桜の大木から植樹した小さな桜の木があった。
そして彼の隣には、薄紅色の着物を着た天女のように美しい女性がいた。
「イギリスの大学で出会った教授がまたおもしろくてね」
「まあ、そうなのですか?」
二人はとても楽しそうに話をしていた。
あの日、司は桜という女性が春の間しか姿をみせられないことを知った。
それでも彼は、彼女と一緒にいたいと願った。
ゆえに司はそれからも毎日桜の大木の下に通い詰めた。
そして春の間は毎日桜と会った。
それ以外の季節も欠かさず通った。
そして彼が学問で食べていけるようになったとき、一軒の古い家を買った。
そしてその庭に、あの桜の大木の枝を植えたのだ。
その枝は驚くべき速さで成長し、次の春には美しい薄紅色の花を咲かせる木となった。
そして桜は、司の家に姿を現すことができるようになった。
そうして二人の同棲生活は始まった。
朝は一緒に起きて、
一緒に料理をして、
一緒に食事をして、
夕方には辺りを散歩して、
幸せだった。
例え春にしか会えないのだとしても。
幸せだった。
「なあ、桜」
「なんですか? 司様」
「愛しているぞ」
「わたくしもです」
愛を確かめ合った二人は静かに微笑みあった。
そんな春の日々は、あたたかいひだまりのなか、おだやかにすぎていった。
◆◆◆
やがて時は流れ、いくつもの季節が巡り、司は重い病の床にあった。
部屋に敷かれた布団に横たわった姿は年老い、やせ細っていた。
そんな司を見守る桜は、昔と変わらず、ただただ美しかった。
「桜……」
「なんですか? 司様」
「お前は変わらず美しいな」
「ありがとうございます」
「ふふ……。なあ、桜」
「はい?」
「僕は幸せだったぞ」
「わたくしもですよ」
「そうか、それはよかった……」
司は瞳を閉じ、桜と出逢ってからの日々を思い出した。
そして静かに息を引き取った。
「司、様……」
桜は物言わぬ骸と化した司の唇に、そっと自身の唇を落とした。
「またいつか、お会いしましょう」
そう言い残して桜は、春風に舞う花びらとなった。
◆◆◆
そして時は流れ、世は令和の時代となった。
そして一人の少年が庭に咲く一本の桜の大木の前で、美しい女性と出逢った。
女性は少年の存在に気付くと、吹いていた笛から口を離し、優しく微笑んだ。
「またお逢いできましたね。……司様」
了
ある月の綺麗な夜。 司は月に照らされた桜の花を眺めながら、酒を飲んでいた。お酌をしてくれる美しい女性の名も「桜」、桜の咲いているときだけ姿を見せる司の妻だった。司はふと気になったことを聞いてみた。「なあ桜」「はい?」「桜が咲いていないとき、お前はどうしているんだ?」「そうですね……」 桜は少し考えたあと、いたずらっぽく笑った。「あやかしたちの住む世界に行っている、と言ったら信じてくださいますか?」 司は一口また酒を飲むと、月に目を移す。「月がきれいですね」という勇気はなかったので、別のことを言った。「あやかしの世界、行ってみたいものだ」 哲学が専門だが妖怪の話が司は好きだった。だからこの言葉は本当だ。桜は少し考えたあと、やはり微笑んだ。「では行ってみますか? 母に会ってほしいですし」 その言葉に司はびくりとする。彼女の母親に会う。それは結婚してしまってからの挨拶ということで順番がおかしい。何事も礼儀作法を守りたい司としては気になるところだった。しかしこのまま挨拶しないわけにもいかない。司は、桜のついでくれた酒を一気に飲み干すと、覚悟を決めた。「わかった。会わせてくれ。お前の母に」「はい」 桜はうれしそうに微笑んだ。二人だけの静かな宴は、司に緊張感を与えたまま続いた。
桜も少し散り始めた頃。普段なら桜との別れを悲しむ時期だが、今回は違った。「あやかしの国」という未知の場所に行き、愛する人を産んでくれた人に挨拶するのだ。昨夜は緊張でよく眠れなかったが、桜は熱心にあやしてくれた。「では参りましょう」 桜柄の薄紅色の着物に少し化粧をした桜はいつもよりさらに美しかった。着なれない背広姿の司は隣にならんで違和感はないかと心配だった。そんな司の心配をよそに、桜は彼を庭に植樹された桜の木の方へといざなう。「目を閉じてください。ゆっくり呼吸をして。次に瞼を開いたときには、そこはあやかしの国です」 司は言われるがまま、目を閉じる。深呼吸をしながらゆっくりと瞼を開くと、そこは桜と出逢ったあの桜の木の下だった。いや、少し違う。広い空き地になっていた場所に、小さく古いが神社がの社殿があった。住民に愛されているのだろう。綺麗に掃除がされていて、子どもたちが遊んで……。「!?」 野良着で遊ぶ子どもたちは、狐やタヌキの顔をしていた。「妖怪……」。司はそう思った。「あー、おねえちゃんだー」 狐やタヌキの顔をした子どもたちが桜に気づいて寄ってくる。そして隣にいる背広姿の司にも視線を向ける。「この人だあれ?」狐の女の子(女児の着物を着ていたからおそらく)は桜に聞いた。桜は幸せそうに微笑む。「わたくしの……旦那様ですよ」「へえ……」 狐の女の子は興味津々といった様子だが、タヌキの男の子のほうはまだよくわからないようだ。「さて、ようこそ司様。あやかしの国へ。歓迎いたしますよ」 桜が手を握ってくる。これから本を読むのとは違った冒険が待ち構えていると思いながら、司も手を握り返した。
あやかしの国の下町を桜と歩く司。街並みは長屋や賑やかな商店街が中心で、江戸時代にタイムスリップしたような感覚だ。あやかしたちの中には先ほどの狐とタヌキのような人間ばなれした獣人だけでなく、人間と変わらない見た目の住人もいた。だから桜と司も目立たずにいられた。 わけではなかった。司の着て来た背広はあやかしの国では珍しすぎたらしい。変わった着物だとじろじろ見られてしまった。人の視線がすきではない司には少々居心地の悪い時間が続いた。そんな司を、桜は気づかわしげに見る。「大丈夫ですか? 司様」「ああ……」「もうすぐ着きますからね」 神社から長屋と商店街を通り抜け、着いたのは司の家の三倍はあるお屋敷だった。屋敷の門の前でその武家屋敷のような建物を見上げていると、白銀の狐らしき獣人が声をかけてきた。「あらあら桜お嬢様。おかえりなさいませ。……おや、そちらの方は?」「梅さん、こちらは司様。わたくしの旦那様です」 黒いハットを脱ぎ、司が頭を下げる。「まあまあ、奥様! 奥様ー!」 梅がばたばたと屋敷に入ると、すぐに奥から落ち着いた薄紅色の着物を着た女性が出て来た。桜とは違い幼い感じのしない気品にあふれた立ち居振る舞いは、司に緊張感を与えた。「母様……」「……まさかあなたが人間を夫にするとは……嘆かわしい」 その言葉に司はむっとした。人間だからなんだというのだ。「人間など取るに足らない存在です。これから神になろうというあなたにはふさわしくありません」 司が何かを言うまえに桜は強い意志を感じさせる声でいった。「いいえ、人間は取るに足りない存在なんかではありません。儚い命だからこその輝きがあるんです」 桜と母親がにらみ合う。やがて苦笑した。「まったく、こんな頑固な女のどこがいいの? 人間さん?」「すべてです」 司ははっきり言い切った。それに機嫌を良くしたのか母親はカラカラと笑った。「お前さん、良い男だね」 司にはよくわからなかったが、どうやら桜の母親は彼を気に入ったようだ。司と桜は、屋敷の敷居をまたぐことを許された。◆◆◆ 居間に通された、司と桜の二人は並んで座り、その対面ににこにこしている桜の母親が座った。梅がお茶を用意すると、司は桜の母親に深々と頭を下げてからいった。「改めまして、宮森司と申します。遅くなってしまい申し訳ございません
しとしとと、雨が降っていた。 そんな中、番傘を差して歩く青年がいた。 青年の名は宮森司。とあるお屋敷に下宿しているいわゆる書生である。 スタンドカラーの白い書生シャツの上から茶色の着物を身に着け、紺色の袴を着つけている。 足元は白い足袋に黒い鼻緒の塗りの下駄だった。 白い足袋をからかわれることもあったが、彼は白い足袋を使い続けた。 二枚の歯がカランコロンと小気味よい音を奏でる。 彼の髪は短い黒色をしていて、丸眼鏡をかけた姿はどこにでもいる書生だった。 しかしその瞳は黒曜石のように輝いており、彼の学問に邁進する心を表しているようだった。 ふと彼の耳に、美しい笛の音が聴こえてきた。 その音色はあまりにも美しく、そして儚げだった。 一瞬で虜になってしまった司は、キョロキョロと辺りを見回し、音色の出どころを探した。 すると山に続く石の階段を見つけ、その上から音色が聴こえていることに気付いた。 そして音色に導かれるように、彼は階段を一段飛ばしに上っていったのである。◆◆◆ 階段を駆け上ると、そこには大輪の花を咲かせる一本の桜の木があった。 その桜のあまりの美しさに、司は息を飲んだ。 その間も桜は雨に打たれ、ひらひらとその花びらを散らしていく。 司が再び息をできるようになるころ、桜の木の根元に一人の女性がいることに気が付いた。 まるで天女のような女性だった。 長くつややかな黒髪は腰まで伸び、その肌は透き通るように白い。 その白い肌に薄紅色の着物が映えていた。 そんな天女を、司はただ黙って見ていた。 見とれていた、といってもいい。 天女は司の視線に気づき、吹いていた笛から口を離した。そして彼を見つめる。 司と同じようで違う、吸い込まれるような黒い瞳が彼を捉えたのだ。 次いで天女はにこりと微笑んだ。その微笑みが司の金縛りを解いてくれた。「う、美しい音色でした」 絞りだすように司が言った。「ありがとう。あなたはこの笛の音色を聴くことができるのですね」 笛の音色くらい、誰でも聴けるだろう。司は頭に疑問符を浮かべた。「……? それはもちろん。あまりに綺麗な音色でしたので、聴き入ってしまいました」「この音色を美しく感じたのなら、きっとあなたの心は美しいのでしょうね」「そ、そんなことは……」 天女との会話はどこか不自然な
天女のような女性、桜と出逢った次の日、司は胸の高鳴りと共に目を覚ました。 夢の中でも桜に会っていたような気がした。 そう、あの美しくも切ない瞳が彼を射貫き、また金縛りにあってしまいそうだった。 それでも心臓だけはうるさく早鐘を鳴らしていた。 ふと司は思った。昨日の出逢いは現実だったのだろうか、と。 まるで白昼夢を見ていたかのようだった。 それくらい桜という女性は儚げで、とてもこの世のものとは思えなかったのだ。 その日は結局桜のことが気になって勉学にも集中できなかった。 大学で愛について研究している司だったが、この桜への気持ちと胸の高鳴りはどんな偉人の言葉でも説明がつかないように思えた。 そんな大学からの帰り道、司は行きつけの和菓子店に寄った。 桜にもう一度会うのに、手ぶらではいけないと思ったからだ。 ガラスケースの向こう側に並べられた色とりどりの菓子たちの中に、桜を思わせる小さく美しい練り切りがあった。 司は迷わずそれを購入した。 そして桜並木を通って、昨日上った石の階段のある場所に向かった。 果たしてそこに山に上るための階段はあるのだろうかと、一抹の不安を抱えながら。 結局、そこに階段はあった。 昨日のことが夢ではなかった証拠を一つ得て、司は足取りも軽く階段を上って行った。 彼の耳に、昨日と同じ美しい音色が届き、彼の胸を高鳴らせた。 急いで階段を上りきると、そこには美しい桜の大木と天女のような女性がいた。「桜……さん」 司は小さな声で声をかけた。邪魔をしていいものか悩んだからだ。 それでも桜は気づいたようで、笛を吹くのをやめ、瞼を開いた。そして司を認識するとふんわりと、しかし儚げに微笑んだ。「司様。また来てくださったのですね」「ええ。約束しましたから。そうだ。今日はお土産があるんです」 どこまで近づいていいものかと恐る恐る桜に近づくと、司は和菓子店の包みを開いてみせた。「まあ。とてもきれいですね。これをわたくしに?」「はい。この菓子を見たとき、あなたを思い出して……」 そこまで言ってから司は、遠回しに桜が美しいと言ってしまったような気がして、顔を紅くした。「ありがとう。とてもうれしいです」 桜は愛するものを見るような優しい瞳で練り切りを見つめた。「いただいてもよろしいですか?」「ええ。もちろん」
あやかしの国の下町を桜と歩く司。街並みは長屋や賑やかな商店街が中心で、江戸時代にタイムスリップしたような感覚だ。あやかしたちの中には先ほどの狐とタヌキのような人間ばなれした獣人だけでなく、人間と変わらない見た目の住人もいた。だから桜と司も目立たずにいられた。 わけではなかった。司の着て来た背広はあやかしの国では珍しすぎたらしい。変わった着物だとじろじろ見られてしまった。人の視線がすきではない司には少々居心地の悪い時間が続いた。そんな司を、桜は気づかわしげに見る。「大丈夫ですか? 司様」「ああ……」「もうすぐ着きますからね」 神社から長屋と商店街を通り抜け、着いたのは司の家の三倍はあるお屋敷だった。屋敷の門の前でその武家屋敷のような建物を見上げていると、白銀の狐らしき獣人が声をかけてきた。「あらあら桜お嬢様。おかえりなさいませ。……おや、そちらの方は?」「梅さん、こちらは司様。わたくしの旦那様です」 黒いハットを脱ぎ、司が頭を下げる。「まあまあ、奥様! 奥様ー!」 梅がばたばたと屋敷に入ると、すぐに奥から落ち着いた薄紅色の着物を着た女性が出て来た。桜とは違い幼い感じのしない気品にあふれた立ち居振る舞いは、司に緊張感を与えた。「母様……」「……まさかあなたが人間を夫にするとは……嘆かわしい」 その言葉に司はむっとした。人間だからなんだというのだ。「人間など取るに足らない存在です。これから神になろうというあなたにはふさわしくありません」 司が何かを言うまえに桜は強い意志を感じさせる声でいった。「いいえ、人間は取るに足りない存在なんかではありません。儚い命だからこその輝きがあるんです」 桜と母親がにらみ合う。やがて苦笑した。「まったく、こんな頑固な女のどこがいいの? 人間さん?」「すべてです」 司ははっきり言い切った。それに機嫌を良くしたのか母親はカラカラと笑った。「お前さん、良い男だね」 司にはよくわからなかったが、どうやら桜の母親は彼を気に入ったようだ。司と桜は、屋敷の敷居をまたぐことを許された。◆◆◆ 居間に通された、司と桜の二人は並んで座り、その対面ににこにこしている桜の母親が座った。梅がお茶を用意すると、司は桜の母親に深々と頭を下げてからいった。「改めまして、宮森司と申します。遅くなってしまい申し訳ございません
桜も少し散り始めた頃。普段なら桜との別れを悲しむ時期だが、今回は違った。「あやかしの国」という未知の場所に行き、愛する人を産んでくれた人に挨拶するのだ。昨夜は緊張でよく眠れなかったが、桜は熱心にあやしてくれた。「では参りましょう」 桜柄の薄紅色の着物に少し化粧をした桜はいつもよりさらに美しかった。着なれない背広姿の司は隣にならんで違和感はないかと心配だった。そんな司の心配をよそに、桜は彼を庭に植樹された桜の木の方へといざなう。「目を閉じてください。ゆっくり呼吸をして。次に瞼を開いたときには、そこはあやかしの国です」 司は言われるがまま、目を閉じる。深呼吸をしながらゆっくりと瞼を開くと、そこは桜と出逢ったあの桜の木の下だった。いや、少し違う。広い空き地になっていた場所に、小さく古いが神社がの社殿があった。住民に愛されているのだろう。綺麗に掃除がされていて、子どもたちが遊んで……。「!?」 野良着で遊ぶ子どもたちは、狐やタヌキの顔をしていた。「妖怪……」。司はそう思った。「あー、おねえちゃんだー」 狐やタヌキの顔をした子どもたちが桜に気づいて寄ってくる。そして隣にいる背広姿の司にも視線を向ける。「この人だあれ?」狐の女の子(女児の着物を着ていたからおそらく)は桜に聞いた。桜は幸せそうに微笑む。「わたくしの……旦那様ですよ」「へえ……」 狐の女の子は興味津々といった様子だが、タヌキの男の子のほうはまだよくわからないようだ。「さて、ようこそ司様。あやかしの国へ。歓迎いたしますよ」 桜が手を握ってくる。これから本を読むのとは違った冒険が待ち構えていると思いながら、司も手を握り返した。
ある月の綺麗な夜。 司は月に照らされた桜の花を眺めながら、酒を飲んでいた。お酌をしてくれる美しい女性の名も「桜」、桜の咲いているときだけ姿を見せる司の妻だった。司はふと気になったことを聞いてみた。「なあ桜」「はい?」「桜が咲いていないとき、お前はどうしているんだ?」「そうですね……」 桜は少し考えたあと、いたずらっぽく笑った。「あやかしたちの住む世界に行っている、と言ったら信じてくださいますか?」 司は一口また酒を飲むと、月に目を移す。「月がきれいですね」という勇気はなかったので、別のことを言った。「あやかしの世界、行ってみたいものだ」 哲学が専門だが妖怪の話が司は好きだった。だからこの言葉は本当だ。桜は少し考えたあと、やはり微笑んだ。「では行ってみますか? 母に会ってほしいですし」 その言葉に司はびくりとする。彼女の母親に会う。それは結婚してしまってからの挨拶ということで順番がおかしい。何事も礼儀作法を守りたい司としては気になるところだった。しかしこのまま挨拶しないわけにもいかない。司は、桜のついでくれた酒を一気に飲み干すと、覚悟を決めた。「わかった。会わせてくれ。お前の母に」「はい」 桜はうれしそうに微笑んだ。二人だけの静かな宴は、司に緊張感を与えたまま続いた。
それからというもの、司は毎日のように桜の下へ通った。 そしていろんなことを話した。 司の通う大学のこと。 おいしい菓子のこと。 遠い異国の地のこと。 司が旅をした街のこと。 どんな話をしても、桜はいつも楽しそうにしてくれた。 それがうれしくて司はいろいろな話をした。 そうしている内に季節は移ろい、桜が散り始めた頃。 その日桜はどこか上の空だった。 司の話は聞いているようだったが、いつものように楽し気でかわいらしい笑みを浮かべてはくれなかった。 それが気になって、司は尋ねた。「その、どうかしましたか? なんだか元気がないようですが?」「いえ、その……」 桜は何かを迷うように言いよどみ、司の目を見ないまま告げた。「司様」「なんですか?」「もうここへは来ないでください」「え? どうして……」「ここへ来ても、もう会えないでしょうから」「なぜ」そう問いかけようとした司の目の前で驚くべきことが起こった。 桜の身体が半透明になり、後ろの景色が透けて見えたのだ。「これは、どういう……」「さようなら。司様。楽しい日々をありがとう」 消えていく桜を捕まえようと、司は腕を伸ばした。しかしその腕はただ虚空を掴んだだけだった……。◆◆◆ 桜が突然消えてしまった次の日。 司は再び桜の大木の下を訪れた。 しかしそこに桜の姿はなく、美しかった桜もすっかり散ってしまっていた。 司の胸がぎゅっと締め付けられた。(もう桜には会えないのだろうか?) 司は痛む自身の胸を左手で強く掴んだ。そして透き通るような青空を見上げた。 まるで何かを誓うように……。◆◆◆ それからも毎日、司は桜の大木の下を訪れた。しかし桜と会うことはできなかった。それでも、それでも毎日通い続けた。 雨の降りしきる梅雨の日も。 太陽の照り付ける夏の日も。 木々を揺らす嵐の日も。 切なさを誘う秋の日も。 雪積もる冬の日も。 そして桜のつぼみが芽吹いた新春の日も。 毎日、毎日通い詰めた。 そんなある日、司の研究が認められる日が来た。研究の内容は「愛の比較研究――日本と西洋の違い」だった。司はそのことを報告するため、桜の大木の下を訪れた。もちろんそこに、桜の姿はなかった。それでも司は報告したかった。「桜さん。ようやく僕の研究が認められました。全
天女のような女性、桜と出逢った次の日、司は胸の高鳴りと共に目を覚ました。 夢の中でも桜に会っていたような気がした。 そう、あの美しくも切ない瞳が彼を射貫き、また金縛りにあってしまいそうだった。 それでも心臓だけはうるさく早鐘を鳴らしていた。 ふと司は思った。昨日の出逢いは現実だったのだろうか、と。 まるで白昼夢を見ていたかのようだった。 それくらい桜という女性は儚げで、とてもこの世のものとは思えなかったのだ。 その日は結局桜のことが気になって勉学にも集中できなかった。 大学で愛について研究している司だったが、この桜への気持ちと胸の高鳴りはどんな偉人の言葉でも説明がつかないように思えた。 そんな大学からの帰り道、司は行きつけの和菓子店に寄った。 桜にもう一度会うのに、手ぶらではいけないと思ったからだ。 ガラスケースの向こう側に並べられた色とりどりの菓子たちの中に、桜を思わせる小さく美しい練り切りがあった。 司は迷わずそれを購入した。 そして桜並木を通って、昨日上った石の階段のある場所に向かった。 果たしてそこに山に上るための階段はあるのだろうかと、一抹の不安を抱えながら。 結局、そこに階段はあった。 昨日のことが夢ではなかった証拠を一つ得て、司は足取りも軽く階段を上って行った。 彼の耳に、昨日と同じ美しい音色が届き、彼の胸を高鳴らせた。 急いで階段を上りきると、そこには美しい桜の大木と天女のような女性がいた。「桜……さん」 司は小さな声で声をかけた。邪魔をしていいものか悩んだからだ。 それでも桜は気づいたようで、笛を吹くのをやめ、瞼を開いた。そして司を認識するとふんわりと、しかし儚げに微笑んだ。「司様。また来てくださったのですね」「ええ。約束しましたから。そうだ。今日はお土産があるんです」 どこまで近づいていいものかと恐る恐る桜に近づくと、司は和菓子店の包みを開いてみせた。「まあ。とてもきれいですね。これをわたくしに?」「はい。この菓子を見たとき、あなたを思い出して……」 そこまで言ってから司は、遠回しに桜が美しいと言ってしまったような気がして、顔を紅くした。「ありがとう。とてもうれしいです」 桜は愛するものを見るような優しい瞳で練り切りを見つめた。「いただいてもよろしいですか?」「ええ。もちろん」
しとしとと、雨が降っていた。 そんな中、番傘を差して歩く青年がいた。 青年の名は宮森司。とあるお屋敷に下宿しているいわゆる書生である。 スタンドカラーの白い書生シャツの上から茶色の着物を身に着け、紺色の袴を着つけている。 足元は白い足袋に黒い鼻緒の塗りの下駄だった。 白い足袋をからかわれることもあったが、彼は白い足袋を使い続けた。 二枚の歯がカランコロンと小気味よい音を奏でる。 彼の髪は短い黒色をしていて、丸眼鏡をかけた姿はどこにでもいる書生だった。 しかしその瞳は黒曜石のように輝いており、彼の学問に邁進する心を表しているようだった。 ふと彼の耳に、美しい笛の音が聴こえてきた。 その音色はあまりにも美しく、そして儚げだった。 一瞬で虜になってしまった司は、キョロキョロと辺りを見回し、音色の出どころを探した。 すると山に続く石の階段を見つけ、その上から音色が聴こえていることに気付いた。 そして音色に導かれるように、彼は階段を一段飛ばしに上っていったのである。◆◆◆ 階段を駆け上ると、そこには大輪の花を咲かせる一本の桜の木があった。 その桜のあまりの美しさに、司は息を飲んだ。 その間も桜は雨に打たれ、ひらひらとその花びらを散らしていく。 司が再び息をできるようになるころ、桜の木の根元に一人の女性がいることに気が付いた。 まるで天女のような女性だった。 長くつややかな黒髪は腰まで伸び、その肌は透き通るように白い。 その白い肌に薄紅色の着物が映えていた。 そんな天女を、司はただ黙って見ていた。 見とれていた、といってもいい。 天女は司の視線に気づき、吹いていた笛から口を離した。そして彼を見つめる。 司と同じようで違う、吸い込まれるような黒い瞳が彼を捉えたのだ。 次いで天女はにこりと微笑んだ。その微笑みが司の金縛りを解いてくれた。「う、美しい音色でした」 絞りだすように司が言った。「ありがとう。あなたはこの笛の音色を聴くことができるのですね」 笛の音色くらい、誰でも聴けるだろう。司は頭に疑問符を浮かべた。「……? それはもちろん。あまりに綺麗な音色でしたので、聴き入ってしまいました」「この音色を美しく感じたのなら、きっとあなたの心は美しいのでしょうね」「そ、そんなことは……」 天女との会話はどこか不自然な